手記・あなたならどうする

第2部 自分ではできない葬儀・法要・位牌お守り(2)



 昨夜、葬儀屋さんに相場を尋ねたら「3万円から300万ぐらいといわれています」と回答になっていない回答をしてくれた。お坊さんに相談しても「志で充分です」と決して額は言いませんよとも付け加えた。

よそのお寺のしきたりは知らないが、わが本家がお世話になっているお寺では、葬儀の道具を取りに行き、葬儀が終わったあとまたお寺まで運ぶことになっている。導師様は道具は自分では持ってこないから身内のものか隣組の人が必ず2回お寺へ通わなければならない。

道具は私と末の弟がお寺に取りに行くことにした。弟はそのついでに本堂へ上がりお参りした後、本堂の壁に近年葬儀があった際にあげられたお布施の張り紙が張ってあるからそれを覚えてくるようにと知恵をつけた。

門徒として彼岸法要にはお参りしているので弟はその辺のことは事情に詳しかった。張り紙は、50万、30万、20万、15万、7万とそれぞれであった。

お寺のお布施の問題を決めると明日の12時の葬儀までは一段落といいたいところだが、喪主である弟は会葬お礼の喪主挨拶の原稿つくりにかかった。本家を継いだ者の大変さをつくづく感じ、本来なら私がこの立場であったはずなのに、と弟に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。

翌日正午から始まった葬儀は、多くの方に参列していただき、予定どうりに終わった。火葬を終わったあと、遺骨を抱いてお寺へ親族は三日参りに行くしきたりになっている。

6月の梅雨どきとはいえ、今年は空梅雨で夕方5時の太陽は真夏のように照り付けていた。汗をかきながらお寺の広い本堂に座った。

遺骨を本堂の祭壇に仮安置し、お経をあげてもらった。そのあと導師様であったお坊さんは一人の人間としてはじめて親族にお悔やみを言ってくれた。

そこで弟はお布施を出した。そのあと七日ごとの回忌の日程打ち合わせをし、再び遺骨を抱いて本道の階段を下りた。

そとは真夏のように照り付ける太陽が、やっと西に傾きかけていた。母が亡くなってから3日が過ぎようとている。寝る暇も惜しんで立ち回ったのに過ぎてしまえば短い時の流れにしか感じない。太陽はいつもと変わらぬ表情で現世を見下ろしている。

※ 法 要

早いもので葬儀が終わって3日で初七日である。

これまでの習慣で、初七日だけは隣組の人たちもお参りくださるよう案内する。それは自宅葬の名残りで一家から二人お手伝いしてもらったお礼の意味がある。

葬儀屋さんに依頼してもこの風習は引き継がれているようだ。たぶん故人が同じ隣組で長らくお世話になったお礼の意味が含まれているのではなかろうか。

お坊さんがお経をあげ、お説教(講話)が終わったあと精進料理とビールや酒で会食をする。

田舎の家は大きな構えが多い。仏間は8畳から10畳はあり、隣の部屋はまたそれくらいの広さである。二間の仕切りは襖で簡単に取り外しができ、20人30人ぐらいの会食は出来る大広間になる。昔の人たちは冠婚葬祭を自分の家で執り行うことを前提に家を造っているようだ。

実家は約40年前に父母が造り替えた。やはりこの行事を想定して設計された田舎風の家である。

夕方6時から始まった初七日は7時前には終わり、会食はその後になる。お坊さんは、車の運転をする関係で、このごろは会食には加わらないことが多い。一応会食の準備はしているがそのまま引き上げる。そのときはお布施のほかに、お食事代、車代として別に渡すのが通例になっている。

二七日忌から六七日忌までの法事は、身内だけで行うが、お坊さんにはお布施とお車代と食事代は欠かせない。

その後も、忌明け、百か日、1、3、13、17、33、50回忌と50年間は法要を続けなければならない。とても跡取り一代では50年の法要はできそうにない年月である。
 とりあえず七七日忌の法要が終わった後は納骨が待っている。 

次回は、自分ではできない葬儀、法事、位牌守り(3)

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