手記・あなたならどうする |
楽には逝けぬ冥土へは(3) |
2回目の入院の最初のころは、気分がよいと手当てをしてくれる看護士さんに両手を合わせ「ありがとう」とはっきりした言葉でお礼をいっていた。 流動食をスプーンで食べさせていたが飲み込みができなくなると、鼻からチューブを食道まで差込み栄養を摂ることになった。このチューブが本人には異物として重い負担になった。チューブを抜かないよう手を監視するのに一時もその場を離れられない。 これまで水が飲みたいといえば少しずつスプーンで与えていたが飲み込めなくなり、いくら水を欲しがっても飲ませることはできない。乾々になった舌、唇、を綿棒に水を含ませ湿してやるのが精一杯である。本人は喉越の冷たい水を欲しくてたまらないのが分かるだけに痛ましかった。 鼻から差し込んでいたチューブを外し、腹部に穴をあけ、胃に直接流動食の注入口を装着したいと医師から申し出があった。看護している姉と弟は、母が鼻に差し込んでいるチューブを嫌がっていたのでその方が楽になるならばと賛成したという。 家族の了解を取った翌日、処置室に運ばれ装着された。 喉に詰まった痰を看護士さんに吸引してもらうときの苦痛も身内の者には耐えがたい光景であった。姉や弟は手を力任せに握り締められ、もがかれ、爪痕が青いあざとなって何箇所も腕に付いていた。 車を運転している間、次から次へとこの三ヶ月間の入院生活のシーンが浮かんでは消えた。 ※ 死化粧 インターを降り医療センターへ向かった。夜の9時半を過ぎていたがもしかしてまだ病院の霊安室に遺体はあるかも分からないと思ったからである。 夜間受付窓口で尋ねると「自宅へお帰りになりました」と宿直らしい中年の男性は事務的に答えた。自宅へと急いだ。 仏間に横たわった母の枕もとには蝋燭が灯され、線香の煙が漂っていた。 いまさっき枕経をあげてお坊さんは帰ったばかりだと弟とは言った。 12時間前、反応はなかったが声をかけたのが最後であった。私の呼びかけは判ってくれたのだろうか。明日看病に来るからと約束をしたのに、それまで待ってくれなかった。こうなる運命であればそのまま病室に残ったのに・・・。 なぜだか母の顔を見て涙は出なかった。悲しくもなかった。酸素マスクをしてチューブにつながれた12時間前の悲惨な顔ではなく穏やかな顔であったからである。 「長い間がんばったね。やっと楽になれたね」これだけ言うのがやっとだった。黙って顔を見続けた。 今夜の顔は最高に美しい。入院中、外していた入れ歯を付けて貰い、口元の皺はなく、ほんのりと薄化粧した顔に薄く描かれた眉毛、酔芙蓉の花びらを思わせる口紅の色、私が知るかぎりの母の思い出の中には存在しない化粧した母の顔である。 化粧すればこんなに美しかったのか。私がもの心ついてから、貧しい中、7人の子供を育てるのに化粧する暇なんかなかった。ただがむしゃらに、明治、大正、昭和、平成と生き続けた母である。 葬儀は、明後日の12時。思うように看病もしてやれなかった。せめてものお詫びに、今夜と明日の二夜は蝋燭と線香の灯を絶やさないよう傍にいてあげたい。 |