五島を訪ねて2

5月4日行程
高浜キャンプ7:00〜民宿(登屋)立ち寄り〜8:00魚津が崎公園8:20〜8:30水の浦教会8:40〜9:15堂崎天主堂10:00〜10:20鬼岳登山口10:45〜市内にて食料調達・昼食〜福江港13:15〜13:50久賀・田ノ浦〜タクシー〜14:15深浦〜幕営場所探し〜15:00久賀小学校付近までウォーキング17:00〜深浦船着場・筏に宿泊 



魚津ケ崎公園
昨夜早く寝た効果なのか、年齢から来る早起きなのか6時の申し合わせに、みんな5時に起きてしまった。
夜中に人の声がすると思っていたら、近くに二つのテントが増えていた。そのテントはまだ深い眠りに包まれている。
出発予定の8時を7時に早め出掛ける。今日も天気は上々のようだ。

まず、魚津ケ崎公園へ向かう。
魚津ケ崎は遣唐使船の寄泊地としても有名。
西暦800年前後の遣唐使は五島を経由して中国大陸へ渡った。その時、日本最後の寄泊地として魚津ケ崎に停泊し、風待ちをしたところだという。
遣唐使たちが命がけの船旅に出発する度に、村人は必ず、魚津ヶ崎に集まり、手を振り、声を振り絞って別れを惜しんでいたという。
弘法大師もここを通って中国へ渡ったのだろうか。

今朝は風もなく、静かな魚津ケ崎。黄色のベストを着た釣り人が3人竿を垂れていた。何が釣れるのだろうか。
道順としては、魚津ケ崎公園へ向かう前に、この教会に寄るべきだった。知らぬ間に通り過ぎたので公園から1kmほど逆戻りしてやってきた。

明治13年(1880)パリ外国宣教会ザルモン師によって創建され、その後現在の天主堂が昭和13年(1938)に完成された木造の教会である。木造教会堂として最大の規模だという。
白い壁が朝陽に照らされ眩しかった。

朝陽に映える水の浦教会

水の浦教会の天井
入り口は開放されていたが中には誰もいなかった。
礼拝堂にはテーブルが置かれ、記帳の冊子とスタンプがあった。その横には善意の箱もある。
正面の窓は朝陽に照らされ、礼拝堂全体を明るくしていた。
水の浦教会を出ると権現山の麓を巻いてドンドン淵経由で堂崎教会へ行く予定であったが、13時15分の久賀行きフェリーに乗る関係もあって、一旦福江に出てからの方が時間短縮になると判断した。道幅も広くスピードが上がり距離は長くても時間短縮になったようだ。

何と言っても、ここ堂崎教会は五島列島にある50あまりの教会の中でもシンボル的な存在である。福江からタクシーで乗りつけた人、レンターカーでやって来た観光客などで賑わっていた。

明治12年(1879)、禁教令解除後の五島における最初の教会として設立。庭園にはこの教会を設立したマルマン神父と、現天主堂を建てたペルー神父、日本二十六聖人の1人であるヨハネ五島の像が、教会を見守るようにして立っている。

堂崎教会

堂崎天主堂のレンガ芸術
赤レンガ造り、ゴシック様式の現在の天主堂は、明治41年(1908)に五島初の本格的洋風建造物として建てられたもの。
その内部は資料館となっており、隠れキリシタンがマリアに見立てて礼拝したマリア観音など受難の歴史を物語る資料が展示されている。
しかし、内部は撮影禁止。ここに限らず、有名な寺社仏閣は撮影禁止の所が多い。素人目にはカメラのフラッシュを使わなければ色彩の劣化もないと思うのだが、ほかに悪い影響でもあるのだろうかといつも残念で不満が残る。
と言うことで、正面のレンガ芸術を写した。
10時に堂崎天主堂を後にして福江市内へ向かう。
時間的に余裕があり鬼岳登山口まで足を伸ばして下から眺めようと言うことになった。展望台まで登った。

丸みのある鬼岳は緑の草原に覆われ登山欲を駆り立てられる。ここまで来て引き返すのはもったいない。が、涙を呑んで断念する。今日明日の食料の買出しをした後12時半までにレンタカーを返さなければならないからだ。

レンタカーの車庫からフェリー発着所まで会社の人がまた送ってくれた。
昼の待合所は閑散としていた。スーパーで買い込んだ弁当をフェリー待合所で食べる。
1時過ぎ、買い込んだ食糧を手分けして持ち、「フェリーひさか」に乗り込んだ。乗船券は船の中で売っているからということでそのまま乗った。が、切符を売っているようなところが見つからなかった。

福江から久賀島・田ノ浦へ渡る便は朝昼夕の3便しかない。フェリーで渡る車は1台だけ。残された広いカー・スペースには生活物資を積み込んでいる。島民のすべての生活を支えている船でもあるようだ。
船が出港してから船員が切符売りに歩き回った。料金は760円

派手な色の「フェリーひさか」

一夜の宿となった屋形の筏
久賀島・田ノ浦港に13時50分に到着。港は接岸の擁壁があるだけで建物もない。車が4、5台駐車できるスペースがあり、そこに予約してあつたマイクロタクシーが待っていた。

船から荷物をタクシーに積み替えるのに忙しく、港の写真を撮る間がなかった。舗装はしてあるが幅は狭く車が離合できそもない道路を曲がりくねりながら走っていった。深浦に着くまでの約15分の間対向車もなく順調に進んだ。
深浦に着くと早速、幕営の場所探しにかかった。昨日は風が強くて転々と移動したが久賀湾は入江で風はない。条件は水とトイレである。タクシーを降りたすぐ近くに神社があった。横に大きな建物があり水道もある。ここに決まった。場所探しに2時間ぐらいを予定していたが簡単に決まって時間をもてあます結果となった。
民宿に居たおじさんに近くの山に登りたいが適当な山はないか尋ねたら、山はあっても山登りする者はいないから路はないという。それでは久賀小学校辺りまで散策するかいうことになった。タクシーで来た路を逆戻りする形でいくつかの小さな峠を越え海岸線へ出た。わずかばかりのたんぼでは田植えは終わっている。そこには「おたまじゃくし」がたくさん泳いでいた。往復約8キロ歩いて5時ごろ神社へ戻ってきた。

神社は港のすぐ近くにあり、塩浜神社といった。この船着場は最近護岸工事がされたらしくコンクリートが新しい。護岸の平場はコンクリートで舗装されていた。この平場を借りて夕食の準備に取り掛かった。
夕食の準備をしていると地元自治会長さんが「テントを張るのは面倒だから、筏で寝泊りしていいですよ」と声をかけてくれた。願ってもないお言葉に甘えさせてもらった。
また近くの民宿からは、生きたアジの差し入れもあり嬉しい悲鳴続きとなった。
会長さんが刺身の造り方を教えてくれた。遠洋まき網船の船長を長年していたと話しながら手際よく包丁が動く。その後各人で自分で食べる分は自分で造ろうとやってみたがなかなかうまくいない。私は「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と唱えながら刺身を造った。料理を作っている間に会長さんの妹さんが大きなザルに熱々の芋や野菜の天麩羅を持ってきて下さった。
今夜のメニューはシチューにスパーで買い込んだ鮭の焼き魚だったが、思わぬ差し入れで豪華版になった。
陽が沈み、すっかり暗くなっても歌とおしゃべりは尽きなかった。自宅で夕食を済ませた会長さんは、酒は飲まないがこの雰囲気は大好きだと言って輪の中に入られた。漁船の苦労、寄港先での思い出を面白おかしく話してくださった。
明日は5時から釣りに出ると言う会長さんの話に「もう遅いからこの辺で」と筏に寝袋と持って行ったのは10時過ぎであった。


荷を解いて夕食の準備に取りかかる
 今度の連休は、福江島、久賀島、奈留島を回ってくると山友達に話したら「久賀島は何もないよ」と返事が返ってきた。「 襟裳の春は何もない春です」の歌の文句じゃないが「何もない」と言われると、どんな所か行って見たくなるのが人情。
 
 確かに都会的なものはなかった。
 しかし、美しい山や海、昔ながらの自然、それに素朴な暮らしの中に心優しい人間味あふれる世界があった。それは経済成長と引き換えに失いかけていたものである。ガツガツと生きてきた、またこれからもこのまま生きようとしている人生を見直してみるきっかけをもらった一日であった。

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