五島を訪ねて3 |
5月5日行程 5月6日行程 |
牢屋の窄教会 殉教者ひとりひとりの氏名と年齢などが記された墓碑 |
5月5日、朝5時には目が覚めていた。6時に会長さんと妹さんは「今朝は波があるから釣りはどうかな?」と言いながらボートで出かけられた。我々は8時にここを出発する。今このときが別れになる。お礼を述べ、堤防の上に並んでボートが見えなくなるまで手を振った。 朝食の準備にかかると昨夜神社の境内においていた食べ残しの魚の干物は動物に横取りされていた。 予約していたタクシーは時間どうりの8時に来た。 久賀湾の海岸線を回りこんで約15分、「牢屋の窄教会」に着いた。 この教会は、明治元年(1868)の「五島崩れ」の発端となった地に建つている。この年、長崎浦上で始まった大弾圧はこの地にも及び、わずか20uの牢獄に幼い子供から老人まで約200人が8ヶ月間にわたり監禁され、座ることも動くこともできない密集地獄のなかで42人が亡くなった。跡地には殉教者ひとりひとりの氏名と年齢などが記された墓碑が並んでいる。 その中に「ノレンソ利八 5才」の墓碑もあった。過ぎ去った歴史としてではなく、現在の5才児を思い出し、胸が迫った。現在も世界では戦争のため幼子が犠牲になっている。大人たちの権力争いで犠牲になるのはいつも子供たちである。人間は愚かな行為をいつまで続けるのだろうか。地球が破滅するまで? |
牢屋の窄教会を出て、再びタクシーに乗る。ひと山越えて「蕨」の集落に出た。ここはかなりの家が密集していた。タクシーはここまでの予約。ここから五輪教会まで6kmを歩く計画である。大きなザックを担いで、手にはまた荷物を下げている。この格好では、とても6kmを歩けそうにない。タクシーの運転手さんに3km先の「福見」まで交渉し成立。これで助かった。 たどり着いた「福見」の集落は右の写真のような所であった。人家は3軒とか。わずかばかりの田んぼはすでに田植えが終わりひっそりとしていた。 道路わきにザックや荷物を置いて人家の方へ歩いて行った。めざすは「寺坂吉右衛門の墓」。 |
3軒だけの集落・福見 人家の先に寺坂吉右衛門の墓はあった。 |
中央の墓碑が寺坂吉右衛門の墓、 右は弟(お坊さん)の墓 |
寺坂吉右衛門の墓がどうしてこんな所に?誰でも疑問に思うだろう。 案内をお願いした、ここに住む70前後のおじさんの話を聞いてください。 赤穂義士の一人、寺坂吉右衛門の墓があるのは、東京・南麻布、五島、出水、八女、益田、伊豆、仙台の7ヶ所。この五島説は、赤穂浪士が吉良邸に討入る1年前、幕領肥前長崎で起きた“長崎喧嘩騒動”。鍋島家中、深堀武士による町年寄邸への討返し。討ち入りは成功したが。参加した武士の12人が切腹、あとの9人は五島に流罪となった。 これが“忠臣蔵”の原型だと言われている。忠臣蔵の仇討ちも成功。その成功のお礼と報告に寺坂は長崎へやって来た。しかし、生きている武士は五島へ流罪になっていた。寺坂は五島へ渡った。そしてお坊さんである弟が住んでいる「福見」で晩年を過ごした・・・と。 寺坂の墓碑はここ地元の石材ではなく遠く近畿付近にある石材と同じ。弟の墓碑は地元の石を使っている。 これが案内してくださった内容である。 注 案内の音声はブログ「暮らしの音色」に掲載 寺坂の墓碑の文字は風化して判読できなかった。 判読できないところに浪漫があるではないか。 とつとつと生真面目に解説してくれたおじさんはここの地名と同じ名前であった。 |
寺坂の墓を見学した後、リュックを担いで歩き始めた。 上り下りを5、6回繰り返し、最後の峠で林道の道は幅の狭い山路になった。自然石の不規則な石段あり落ち葉路ありと登山路と変わらない。あえぎながら歩くこと40分で海岸へ出た。 拓けた視界の向こうに入江があり、数軒の家が山と海に挟まれへばりついている。そこが五輪の集落であった。車では来られない集落で船だけが頼りだという。 海岸擁壁の平場を伝わって集落に近づいた。 右の写真、一番右の建物が新教会。三軒目の屋根の白く光っているのが旧五輪教会。左の突端が船着場。 |
五輪集落 |
旧五輪教会の内部構造 |
旧五輪教会 ガイドブックによると、 木造の旧聖堂は明治14年(1881)に建てられたもので、下五島では最古の教会建築。もともと久賀島のカトリックの中心である浜脇教会の聖堂として建築され、昭和6年(1931)に現在地に移された。内部はゴシック様式という明治初期の教会堂建築史を物語る貴重な天主堂といわれる。 外から見ると何処にでもある木造の家と変わらないが内部は木造でありながら曲線を多用した造りになっていた。 |
昭和60年(1985)旧五輪教会の横に建てられた新聖堂。 | 新五輪カトリック教会の内部 |
網の手入れをする五輪の漁師 |
五輪集落の唯一の足である船着場では漁師さんが網の繕いをしていた。 この網で何を獲るのかと尋ねたら「伊勢海老だ」と繕いの手は休めずに語ってくれた。よそ者にはのんびりとした漁師生活にうつるがここで生活するには、よそ者には想像できない苦労も多いことだろうと思いながら眺めていた。 |
蕨から福見までの3kmをタクシーで来たため、ここ五輪に着いたのは予定の11時より1時間も早く10時に着いた。教会の見学には時間はかからない。海上タクシーがこの港へ着くのは12時30分の約束である。 携帯電話で連絡をとり11時半に早めてもらった。 それでも時間があり過ぎる。教会の広場で行動食を取り出し食べた。昨夜たくさん貰った「芋の天麩羅」を皆に配った。昨夜の暖かいもてなしを思い出しながら美味しくいただいた。 休憩していると、2艘のカヌーが海岸に着いた。若い外国人のカップルだった。教会を見学した後休憩している私たちの前を通った。てんぷらを分けてやった。美味しいとこの二人も喜んで食べてくれた。日本語が話せる人で島原に住んでいると話してくれた。 二人は再びカヌーを漕いで向かいの島・奈留島へ消えていった。 |
海上タクシー 五輪から奈留島まで高速艇で10分 料金は6000円 |
奈留島の玄関口・奈留ターミナル |
奈留島・浦の港には、ここ出身で諫早在住の当クラブ会員であるKさんが迎えにきてくれた。 我々を案内するため前の日から実家に里帰りされていた。軽乗用車で今夜の宿泊地宮の森キャンプ場まで三往復して8人を送ってもらった。 往復20分の道程を3回、下船してから1時間後には全員が今夜の宿泊地に揃った。予約していたバンガロは電気、温水設備、シャワーと文化住宅。ないものはテレビぐらいである。そういえばもう3日間テレビは見ていない。あちこちと初めての所を見聞しているのでテレビがなくても退屈しない。こんな暮らしもよいものだ。 これから江上教会と奈留千畳敷へ出掛ける予定にしていたが地元の漁師さんが釣った鯛をここに持ち込み料理してくれるとのことで、留守にするわけにはいかないだろうと意見が出て取り止める。 |
14時ごろ漁師さんが今夜は海が時化そうだから漁には出ない。と言ってぶらりとやって来た。それでは今夜は一緒に飲みましょうと言うことになった。漁師さんが刺身を造っている間に近くの山へ希望者だけで登ることにした。 出掛けたのは男性3人。水晶岳と尾根続きの遠見番山をめざした。水晶岳は日本式双晶で有名な山。もしかしてと注意しながら歩いたが落ち葉で覆われた地面では水晶は見つかるはずもなかった。 遠見番山は烽火窯の跡が草に覆われていた。遠見番所は徳川時代、当時鎖国を実施していた江戸幕府の命令で設置されたもので、外国船の警戒に当たっていたという所。 五島藩は、日本の西端で特に重要視され、幕府から課された異国船警備体制を強化するため番所を設けていた。 奈留の遠見番山(トメバンヤマ)は、同四年の設置で役人は番頭一人、足軽二人。常時二〜三人の役人が見張っていたという。 遠見番山で時計を見ると15時35分、引き返すには早すぎる。ついでに明日登る予定の城岳まで足を伸ばせば17時ごろキャンプ場に帰り着くと計算した。 城岳は360度展望の利く山で頂上まで車で登れる。公園化され綺麗な展望台もある。 できるだけ車道は登らず、藪こぎをしながら登った。 山頂は、植栽されたつつじが満開であった。展望台からは福江島、久賀島、若松島と大小幾つもの島が点在し、佐世保の九十九島に匹敵する眺めであった。 |
城岳に登る途中から眺めた遠見番山 |
別枠でとってあった鯛の刺身 |
17時にキャンプ場へ帰り着く予定が17時30分になってしまった。 16時ごろから始めていたという酒盛りは一段落していた。 別枠で取っていたという刺身と、あら炊き、鯛の吸い物が目の前に並べられた。またみんなで飲み始めた。 3時間歩きとおしの空き腹に冷たいビールが染み渡る。また厚くて新鮮な鯛の刺身はこりこりと歯応えがあり、ここ五島ならではの肴に満足満足。 漁師さんとKさんは20時ごろ帰った。 |
Kさんのお世話で、地元漁師さんが朝4時までかかって釣ってくれた大鯛の刺身で、「五島まで来て新鮮な魚にありつけなかった」という危惧はいっぺんに吹き飛んでしまった。 翌朝、4時に起きた。出迎えてくれたときと同じようにKさんが船着場まで3回往復して全員を運んでくれた。 |