ふるさと諫早の歴史探訪

        この「ふるさと諫早の歴史探訪」は、郷土史家夏目孝男先生のご案内をいただき、
      その資料を参考にさせていただきました。

眼鏡橋(国指定重要文化財)
諫早のシンボルとされるこの橋は、天保9年(1838年)2月に着工して翌10年8月に
完成している。
本明川に掛かっていたこの橋は、昭和32年の大水害にも流されず、その後の河川
改修に伴い解体されて現在の諫早公園に移築された。
安勝寺の時鐘
安勝寺の正門を入って突き当たりにある鐘楼が諫早で初めて時刻を告げた
「時の鐘」である。享保5年に設置され、9月18日から始められた。
安勝寺は大名やシーボルトなどの宿泊に使われた本陣である。
慶巌寺の名号石
慶巌寺の山門を入って西隣の分厚い巨石に「南無阿弥陀仏」と薬研彫りにした
名号石があり、貞和7年(1351年)と刻んである。県文化財に指定されている。
諫早神社
別称四面宮とも言われる。祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)少彦名命
(すくなひこなのみこと)の2神を祭ってある。
鎌倉時代に領主西郷石見守が建立して神官を置いた。
高城神社
高城神社はその昔、高城公園に建立されていたが、昭和32年の大水害で
大破して現在の地に移築された。
祭神は諫早家初代領主竜造寺家晴公で、明治15年(1882年)の創建である。
諫早家の墓
諌早家の菩提寺であった天祐寺には、初代領主竜造寺家晴公より18代家興公
まで、代々の領主一族の五輪塔形式の墓がある。領主の墓18基、正・側室や
子息の墓25基などがある。県の文化財に指定されている。
富川五百羅漢
本明川の源流の富川渓谷の岸壁に刻み込まれた五百羅漢像は、様々な人間味
豊かな姿を拝することができる。
約300年前に刻まれ、県文化財に指定されている。
御手水観音
長田川を遡ったところに御手水観音がある。千手観音を本尊とし、参道左手の
岸壁に摩崖仏群がある。
織部灯籠
別名キリシタン灯籠とも言われている。織部灯籠は千利休の高弟で戦国時代の
大名古田織部が茶室の庭に置くために考案したものと言われている。
笠の上部がふくらみ、僅かに十字形になっていて、笠の中央下部に舟形光背を
堀りくぼめ、その中に立像が陽刻されている。
この立像をキリストまたはマリア様として拝んだと言われている。
西郷の板碑
西郷の板碑は西郷町のアパートの前にある。ここは江戸時代、荘厳寺の末寺の
慈眼院があったところで、古い霊場があった場所だと言われている。
建久元年(1190年)の銘があり、浄土信仰の供養塔だと言われていて、素朴な
板状自然石で出来ていて、上部中心に大きな円を描き、その中に梵字のアーンク
という種子が彫りつけてある。
青木弥惣右衛門
小野の干拓地に用水が不足していたので、青木弥惣右衛門の計画の下に
本明川から半造川の下に樋管を埋設して干拓地へ導水した。

山崎教清
山崎教清は近世干拓の祖として崇められ、川内町の西の外れに山崎教清位の
大きな石碑が建立されている。
川内町地先を干拓するに竜造寺家晴は同調して75人の家臣をつけて工事に
当たらせた。
夫婦木の大木
小栗小学校よこの坂道を登りきった先の集落の中央に高さ約32m、目通し
幹周り9mの大木が聳えている。
昔は2本の大杉があったので、夫婦木の地名がついたと言われている。
国の天然記念物にしていされている。
諫江八十八ヶ所
諫江八十八ヶ所巡拝のページをご覧ください。
法川山和銅寺
奈良時代の和銅元年に元明天皇の勅願寺として暦号を持つ高来町にある
曹洞宗の寺で、九州西国33観音23番札所。
行基菩薩が自ら十一面観音立像を刻んで本尊とされている由緒ある寺院。
この十一面観音立像は50年に一度御開帳になる秘仏とされている。

塩屋崎の勝良灯台
塩屋崎は深海川河口東岸の先端に位置する小さな丘で、深海川河口はこの地方
唯一の港であった。
勝良伊右衛門が漁に出た舟の夜の寄港を助け、沖行く舟の方向ずけにと明治
31年この丘に灯台を設け、その上灯台の明かりに使う灯油までも供した。
深堀純賢夫妻の墓所
深堀領主深堀純賢(すみまさ)は伊佐早領主西郷純堯の弟であるが、後継者が
なかった縁戚の深堀家第16代善時に領主として迎えられた。
高来町船津にある曹洞宗天初院の裏側の墓地にある。

善神さん古墳
高来町の湯江神社の傾斜地にある。古くは土盛りがあって、円墳の形になって
いたと考えられるが、現在では玄室が剥き出しになって石室の上外部はコンク
リートで固め、瓦葺きとなっている。
横穴入り口の蒼ケ部は取り去られ、袖石のみが残っている。
高来支所沿いの道路に案内標識が建てられている。
長戸鬼塚古墳
小長井町牧にあって、形状は円墳で墳丘の直径約15m、高さ5mである。
石室は複室の両袖式横穴式で、構造は安山岩の巨石を腰石に使用され、
入り口左側の下部の巨石には鯨の線刻画がある装飾古墳である。
国道207号線沿いに案内標識が建てられている。
土橋貞恵の墓所
土橋貞恵は安永5年(1775年)に現在の長田町に生まれる。幼い頃に両親を失い、
大変貧しい生活をしていた。
17歳の時に長崎に出て吉松道碩について医術を学び、32歳の時現在の森山町
杉谷で医者として開業する。
親切で情け深い医者で医術も大変優れていて、名医として評判が高かった。
無駄遣いなどはせず、財産は惜しみなく社会事業に注ぎ込み、諫早藩主はその
善行を称えて貞恵という号を授けた。
11人庄屋の墓
江戸中期から後期に掛けて現在の森山町上井牟田は島原から長崎へ通じる交通の
要衝であり、多くに人が住み栄えた。
その頃この地を治めていた庄屋11人の墓が並べて建てられている。

横尾の石槨
3千年以上前の縄文時代後期の遺跡で、平石で覆った石槨の一つに両親と娘と
見られる人骨三体が埋葬されていた。


千々石ミゲルの墓
千々石ミゲルは永禄12年(1569年)に現在に雲仙市千々石町に生まれ、大村藩主
大村純忠の甥にあたる。
天正10年13歳頃にローマに派遣された天正少年遣欧使節4人の一人である。
慶長6年(1601年)にイエスズ会を脱会して清左衛門と名乗り、慶長11年にキリシタン信仰を捨てる。
本墓石は4男の千々石玄蕃允が建てたのではないかと言われている。