長崎街道ぶらり旅 |
長崎県立千々石少年自然の家主催 日 時 2006・1・22 コース 諫早市・旧久山茶屋橋〜井樋尾茶屋跡〜藤棚茶屋跡〜役の行者神社〜矢上宿〜腹切坂〜日見宿〜芒塚句碑〜蛍茶屋跡〜「長崎街道ここから始まる」の碑〜長崎歴史文化博物館 快晴に恵まれ最高のウォーキング日和。とはいってもやはり冬、風は冷たく歩きをやめると体が冷えて手先が冷たい感じであった。 旧久山茶屋橋を予定の9:00に参加者34名主催者職員7名でスタート。 ゴールは15:00の予定であったが14:00には長崎歴史文化博物館に着いた。 |
まずこの地点からスタート。 この井戸のすぐ下に茶屋があり、江戸を往き来きした、長崎奉行、大名、商人、学者もこの茶屋で休憩、冷たい水を飲んだであろうとの説明板がある。 ところで、このような掘抜き井戸の技術は、いつごろからあったろうか、と後ほど調べたら弥生時代にはあったというから井戸の歴史はかなり古い。 この井戸がいつ掘られたのかは分からないが・・・。 |
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スタートして約15分でこの籠立場に着く。 ここに来るまでに予想外の上り坂で息が弾んだ。 籠立場は見晴らしのよいところであったに違いないが、現在は樹木に遮られ何も見えない。 石碑の背面が大村湾方向になる。 |
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籠立場から坂を下ると、のんびりとした農村風景が続き 人家もまばらで時々農家の軽トラツクが往き来するぐらいで安心して歩ける。 誰もちぎる気配の無い熟した柿が今にも落ちてきそうな柿ノ木のたもとには、古い家があった。 茅葺の屋根はトタンで覆われ、風雨を凌いであるが屋根の形そのものはそのままであり、茅葺の面影を思い出させてくれる。 なんといっても街道歩きは、昔の面影を探し求めている部分が大きく、このような風景に出会うと歩いてよかったなぁと感じる。 |
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井樋尾の「御境石」 1808年のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警固の必要から、1859年幕府の命により、大村領東泊(大浦村)は天領に編入、代地として古賀村を大村領とした。その時長崎街道筋に建てられた「御境石」。 スタートして40分の位置。 |
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古賀・中里町は植木・盆栽で生計を立てている家が多い。街道筋には何キロにもわたってこのような風景がつづく。 この先、今も大きな藤が残る藤棚茶屋跡、古賀人形の発祥の地を通る。 古賀人形は、約400年前の文禄年間、当時島原藩松倉家の管領にあった古賀村で小川家の先祖が農業のかたわら土器とともに人形を作ったのが始まりといわれている。この人形は異人の人形で海外と交易のあった長崎らしい趣のある人形である。 |
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このあと八郎川の左岸と平行して歩く。途中に饅頭屋があり、歩きに参加した子供や女性は並んで買っていた。 昔、「石垣だご」といっていた饅頭は「いしがき饅頭」としてこの店で売っていたとのこと。母子はこれを食べながら歩いていた。 矢上市街地に辿りついて八郎川河口の長龍寺橋を渡り11時矢上宿に到着。 ここでトイレ休憩?しかし矢上神社の境内に入りトイレを探したが見つからなかった。 |
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矢上宿から番所橋を渡ってしばらくして現国道を左に曲がり急な坂を約10分ほど登る。この急な坂の両側には住宅がへばりつき「坂の長崎」のイメージがこの辺から沸いてくる。この峠を下りつくと網場の街になる。 この下る坂は「腹切坂」と呼ばれている。 「この(日見)地方の伝説に、何時のころであったか、一人の武家が日見の豪士に剣術の試合をいどみ、不覚のも敗れ去ったのを無念に思い「武士の面目相たち申さず」といい、この坂のあたりで切腹したという。以来この坂を腹切坂と称したと伝えている」と解説した案内板が国道に建ててあった。 ここから網場の街へ降りて、いよいと日見峠へと長い坂道へ挑戦する。 |
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網場から日見トンネルのある「梨子の木茶屋跡」までは急な坂道続き。この区間を昼前の11時半から12時半にかけての歩きになり空腹で疲れは倍加した。 この区間は市街化されて昔の面影はほとんど残っていない。自然石で積んだ石積がところどころに残っているぐらいである。この梨子の木茶屋跡まで登り一息入れ、ここで昼食のつもりであったが、あと少し頑張って「去来の句碑」のところから下界を眺めての昼食にしようという希望が多く更に登り、昼食は12時40分ごろになった。 |
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昼食のあと昔そのままの面影を残した街道を登る。 日見トンネルの真上あたりに位置し、勾配は急になる。 いまは歩く人も無く荒れた状態だがこの方が古道を歩いているという実感がわいてくる。 |
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峠9合目付近からの眺め。 画面左の山は矢上・普賢岳、右の丸い形の山は飯盛山。前方の住宅街は矢上団地。手前は田中町。 ここから峠のピークまではかなりの距離が残っている。 ここが最後の展望の利く場所となった。 その昔、ススキが一面にたなびいていたであろうがいまはその欠片も想像できない風景である。 |
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この切り通しの道路延長は約50m足らずである。見た目にはありふれた道に過ぎないが、何と日本で最初の有料道路である。 小倉〜長崎を結んだ長崎街道では一番急峻な坂道で「西の箱根」とも呼ばれていたとのこと。明治15年にこの峠を民間の資金で切り下げ、その資金を返すために一人5厘の通行料を徴収したという由緒ある道路。右電柱のところから急坂を登り幾重にも曲がりピークを越してまた長崎市街のほうを見下ろしながら、50m先の道路へ降りてくる。時間にして15分ぐらいはかかる。 峠付近には日見峠関所跡もある。 |
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峠を越えると標高差200mを蛍茶屋まで下りになる。 街道筋は人家が連なり道幅は狭く、坂の上り下りは長崎独特の風物詩と言ってもよい。 本河内付近は街道の上を跨いで国道の高架橋が通り、街道を歩いている雰囲気が出ない。 「長崎街道ここに始まる」の標柱があるところに着いたのは13時50分であった。 これで「長崎街道ぶらり旅」終わり。 |
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集合場所は、長崎歴史文化博物館。 帰りの貸切バスは15時30分。 1時間半の待ち時間があるがお金を出して見学するのには時間が少なすぎる。館内の無料の展示物を見て廻り時間をつぶした。 いずれゆっくりと訪れたいところである。 まだ開館して日数が経っていない建物で、白壁が冬日に照り返っていたのが印象的だった。 |
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旧久山茶屋橋をスタートする時点では、朝の冷え込みが厳しく、手がかじかむほどであった。 しかし、太陽が一日中照りつける好天気に恵まれ、着込んだ衣類を一枚一枚脱ぎながらのぶらり旅であった。 タイトルは「ぶらり旅」であったが、日見峠越えは西の箱根峠と言われるだけあって「ぶらり」と表現できる気楽なウォークではなかった。 現代人は隣のタバコ屋へ行くにも車を使うとよく言われる。それだけ歩かない動物になってしまったのである。 昔の人たちは何処へ行くにも自分の足が頼り、現在よりももっと険しい日見峠であったろうが、今日の我々よりも楽に歩いたのではなかろうかと、思いながらの峠越えであった。 |