島原街道・殿さん道を歩く

2005・12・17

 今年は12月になって寒波がたびたび襲っている。例年12月に雪が降るのは1〜2回だそうだが、すでに8日も数えている。気象情報を聞くたびに「この冬最高の寒波」という形容詞がつくこのごろである。

 長崎県立千々石少年自然の家主催の「島原街道・殿さん道を歩く」は12月17日「この冬最高の寒波」という強風、雨、雪の悪天候の中で行われた。

 参加20名の予定がこの悪天候で半分に減り、主催者を含め14名でのスタートとなった。
 千々石からスタート地点の島原へ移動するバスの中で「行程32キロ。出会いや発見、自己への挑戦など、各自の目的に添って歩いてください。途中の休憩や名所見学、昼食は自由、ただしゴールは午後4時から5時ごろまでにしてください」と責任者から説明があった。

 名所見学を兼ねての8時間はかなりの急ぎ足でないと無理だと思った。
 16キロ過ぎからは救護のマイクロバスが伴走するとの説明に、最悪の場合には救護車のお世話になればよい、と開き直った。

 20キロコースは数回経験すみ、30キロは初めての挑戦。
 さて午後5時までに土居口番所跡へゴールできるだろうか。

マイクロバスは大手門前に7時50分に到着した。
ここに着くまで雨は降っていたがバスを降りると雲は切れ青空が見えている。この状態で天気は回復してくれるよう願った。
8時ちょうどスタート。雨上がりの舗装道は水溜りがありさっきまで雨であったことを物語っている。
風は冷たい。歩き出せば身体は温まり何とかなるだろう。
島原鉄道・島原駅前通りから左手に島原城とその先に雪化粧した眉山が見えた。
街中を幾重にも曲がって海岸近くへ出る。
1792年、大地震により眉山が崩落「島原大変肥後迷惑」の大惨事が発生した。

津波による溺死体が海岸に打ち上げられた。その「流死菩提供養塔」が島原半島のあちこちに建てられている。建立は翌年の1793年。
その一つがスタート地点から15分歩いたところにあった。
スタートして45分平成新参を眺める。

14年前、普賢岳の火砕流は初め南側斜面の水無川方向に流下していたがドームが膨れ上がり後には北側斜面の中尾川へも流れ出した。
今、中尾川は改修され、国道251号の橋も拡幅・嵩上げされている。

橋の上から平成新山を眺めた。厚い雲に覆われまったく姿は見えなかった。
左の山は眉山。
全行程32キロのうち踏切を渡ったのは10箇所ぐらい、そのうち遮断機が下りて足止めになったのは2回であった。

黄色の車体に子守人形のイラスト。島原の子守唄を表したもの。

スタートして50分。三会駅の踏切で。
護岸・堤防が整備された海岸を北西へ歩く。
前方の集落には港があり、江戸後期、八代沿岸や天草地方と交易が盛んに行われたという松尾(三之沢村)港がある。
スタートから1時間20分。
9時40分、島原鉄道「大三東駅」に寄り道、トイレを探す。無人の駅でトイレはなかった。

島原市へ出掛けるのであろうか。線路の向こう側の待合所に3人の乗客が電車を待っていた。

手前の人がトイレを探し回っている同行のウォーカー。
結局30分後に民家にお世話になることになった。
男性は物陰で何とかなるが女性にとっては大きな問題である。
大三東で国道251号を横断、海岸線とはお別れ、南方向へ進む。街道は人家と畑の中を貫いている。
風は人家で遮られ冷たさは感じない。
有明町役場付近までおおよそ2時間かかった。
この大きな古い建物は造り酒屋である。
温泉山、満明寺別院の僧房跡との言い伝えがある温泉屋敷という地域がある。
その急坂を上りついたところは急なカーブになっている。
カーブの視線誘導に造花の花器が並べてあった。暗い夜道の運転に大いに役立っているに違いないと思って写真に収めた。
スタートから2時間40分の地点。
籠と馬が殿様の唯一の乗り物であった時代の跡。
島原藩馬継ぎ跡の標柱があった。
スタートから2時間50分の地点。
次  へ