手記・あなたならどうする
楽には逝けぬ冥土へは(1)


母が享年96歳だったと聞いて「大往生でしたね」と殆どの方がお悔やみを言ってくださる。私も、この年齢まで生きてきた母は冥土へ旅立つとき大往生してくれるものと思っていた。
 大往生という言葉には、苦痛もなく生命が燃え尽き、だんだんと灯火が細っていく静かな安らぎのイメージがある。
 高年齢になると身体の機能が均等に衰退し、夢見心地で息をひきとるものと思い込んでいた。

平成17年6月21日

夕方、病院で付き添っている弟から「容態が下向きになっている。明日来て欲しい」と電話があった。

今年96歳になる母は、姉(73歳)と弟(66歳)の介護で在宅療養をしていた。何十年も付き合いのある街医者が定期的に往診し、食事、入浴、排泄と介添えを受けながらも最低の身の回りのことは自分でやっていた。やっていたというより、身体を動かさなければ早く寝たきりになるからと姉が甘やかさなかったといったほうが適切な表現かもしれない。

実家に時々顔を出すと母は「姉ぇーは、厳しい」と、私にいつも愚痴をこぼしていた。実の親子は言いたい放題のことを言って喧嘩しながら、介護され、介護していたようである。
 しかし、このごろは心肺の機能低下で、時々心不全、呼吸困難を起し自宅介護も限界に達していた。

呼吸困難の発作で医療センターへ救急車で運ばれたのは3ヶ月前である。
入院中は体調に波があり、だんだんと末期に向かっているのではと見舞うごとに感じていた。

電話で弟は「もうこれ以上自力での呼吸は衰えるばかり、人工呼吸器を装着するかどうか医師から返事を求められているので相談したい」と付け加えた。
あす医療センターへ行くことで電話を切る。

平成17年6月22日

「今朝方、危篤状態になったが今はは少し持ち直し、ナースセンター前の個室に移った」と弟が朝7時に再び連絡してきた。個室に移されたということは病状の悪化を意味している。

電話があったときまだ朝飯も食べていなかった。家を出て病室へ着いたのは10時であった。酸素マスクをしているが赤味を帯びて湯上りのような血色のよい顔である。熱のためであろうか。
 かすかな息遣いはあるが声をかけても反応を示さない。まったく聞こえないのか、聞こえても反応する力がもうないのかのどちらだろう。

「人工呼吸器はつけないと医師に伝えた」と弟は病室から少し離れたところで私に告げた。容態の急変で決断を迫られたのだろう。私もそれが賢明で母に対する思いやりであると思った。

入院以来、酸素マスク、点滴、排尿、とパイプが日ごとに増え、食事が摂れなくなると流動食のパイプが鼻から挿入され身動きが不自由になった。これらのパイプを払いのけようとする手を制止するのが付き添いの仕事である。
 本人の苦しみがわかるだけに、心を鬼にしてその手を制止しなければならない看護人の辛さ。

人工呼吸器は気管に穴をあけ装着するのだという。その装着の苦しみをまた与えるのかと思うと、ここまで頑張ってきたのだからもうこれ以上本人を苦しませたくない、楽にしてやろうという気持ちの方が強かった。と釈明する弟に異存などあるはずもない。

人工呼吸器を付けても、ここまで心肺機能が低下した身体には延命の効果は期待できないと医師は言ったという。そうであればなおさら、これ以上の苦痛を与えることはできない。

この状態だと、あと2、3日であろうとの医師の判断であった。兄弟で最後の介護順番を決め、私は一旦家に引き返した。

毎日が日曜の閑人だと思い込んでいたが長期の留守を想定すると、やっておかなければならない雑用の多さに驚いた。午後からあちこちへ仕事の引継ぎを依頼し、終えたのは夕方7時ごろであった。

「19時54分息をひきとった」と弟から電話があったのが午後8時である。

(第2回へ続く)

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