七月二十三日の午後五時半ごろ、書類を片付け帰り支度をしていた.周りの者はみんな帰ったあとで、私一人が残っていた。
今まで小降りだった雨は激しくなり、小止みになるまで待つことにした。しかし、一時間経っても雨は小止みになるどころか、かえって雨足は強くなり雷鳴とともに降り続いた。
「国道から雨水が店の中に流れ込んでくる.すぐ来て何とかしてくれ」
「側溝にゴミが溜まって水が溢れているから掃除に来てください」
などなど、地元商店街や国道沿いの民家から電話がかかってくる。
「国道が冠水して車の通行ができない.通行止めの標識を立ててくれませんか」
と警察からの要請がある.
もう一人では応対することができず、一旦帰宅した職員に応壌を頼んだが、車が使えなくて二、三時間後にやっと数人が来てくれた。しかし、一面が冠水していては道路パトロールカーといえども無力である.現地に出かけることができない。
一晩中、苦情や助けを求める電話が鳴ったが、動きがとれない状況を説明し、頭を下げ了解してもらうより方法がなかった。
翌朝、一睡もしないまま昨夜苦情や情報を教えてもらった場所を、確認のためパトロールカーで出発した。
大村から三十四号国道を長崎に向かった.国道に流れ込んだ流木を片付けながら、土手から流れ出た土砂を避け、長崎市の松原までたどり着いた.滝の観音入り口の手前で道路が消えている。大きな山が道路の上にどつかりと座り込んでいた。右側の山が山朋れ、道路をまたいで左側の川に土砂が流れ込んでいるのである.
パトロールカーから降りて崩れた山を腹這いになって川岸に下りた。
川の中には、黒い腹を上にしてひっくり返った白い乗用車、橋の橋脚に重なり合って引っかかっている白い軽自動車、川岸の草の茂みに頭を突っ込んだ赤い車など数えきれないほどの流車である。
川岸の草のなびきが水嵩と濁流の猛威を示している。その痕跡とはうって変わって静かに流れる黄色の水は、住民の戸惑いにせせら笑いをしているようである。
私は、昭和二十八年の西日本大水害で見た、あのふやけて腹が膨らんだ豚や犬の死骸とここの流車とが重った。仕事のことも忘れ、自然の怖さにただ圧倒され、しばらくの間茫然と立ちつくしていた。
受け持ち区間、五十五キロの国道はいたるところでずたずたに寸断されてしまった。一日も早く全線開通しなければならない。その日から災害復旧に追われる毎日が続いた。
ーー「自分史・草人木の花」の中から一部抜粋ーー
|