木曽路を歩く(1)

旅には、生活のしがらみから逃れ、しばしの間、別世界に身を置くもう一人の自分がいる。 時の流れを遡り、はるか昔へ旅してみたい。こんな想いで木曽路を歩いてみたくなった。

とは言っても、木曽路は中山道の一部で、北は桜沢から南は馬籠・落合間にある立場茶屋までの88kmある。

今回は奈良井宿から鳥居峠を越え薮原までの8km、妻籠宿から馬籠峠を越え馬籠宿の9kmを小雨降るなか新緑の街道を歩いた。

 地方の大名は、3年に一度、徳川のご機嫌とりに、この街道を通って江戸へ参上しなければならなかった。また町人や商人、お伊勢詣り、御嶽山詣り、世捨て人、駆け落ちの隠れ人も通ったであろう。数えあげればきりがない。

 それぞれの旅人はどのような想いで、この木曽路を行交ったであろうか。

 わたしの木曽路は物見遊山の旅に過ぎないが、江戸時代の面影を残すこの街道を歩いて、いくらかでも300有余年前の旅人の心情を汲み取れたらという思いがある。



奈良井の宿・木曾の大橋(道の駅)
檜を使った木造の橋
奈良井の宿10時30分着

長崎からはるばるやって来た。草鞋を履いて何日もかかってやって来たわけではない。文明の利器を利用しほとんど歩かないでたどり着いたのだ。
長崎を前日の正午に出て、バス、フェリー、バスと乗り継ぎ、おおよそ1日がかりであった。
昔の旅人の苦労も知らず、バスを降りたとき「長がったなぁ、あぁ疲れた」とつい口から出てしまった。
バスから降りると冷んやりとした奈良井宿だった。
小雨が降っている。この先どうなることか?雨衣と傘を取り出し準備した。
昔の旅人は、三度傘に合羽、荷物を前後に振り分け肩に担いだに違いない。今はザックという便利なものがあって助かる。
今日の予定は、奈良井宿から鳥居峠を越え薮原まで。
ストレッチ体操をして体をほぐす。
ただいまの時間11時10分。散策の後、鎮神社を12時30分鳥居峠へ向かって出発とのこと。600mの宿場街は自由散策。写真を撮る人、買い物をする人とそれぞれに目的が異なるだろうから、とガイドさんはフリーにしてくれた。
しかし、1時間20分の散策は長いようでも、昼食時間を含んでいるからゆっくりはできない。
幸いに雨は上がってくれた。
江戸時代の風情を残す憧れの奈良井宿。おぉーここが奈良井の宿場かと一直線に伸びる街道筋を立ち止まって眺める。電柱なし、けばけばしい看板なし、褐色に黒く渋い家並み、平日のためか観光客はまばらで閑散としていた。
遠くから「下にぃ〜下にぃ〜」と大名行列がやってきそうな雰囲気である。
キョロキョロしていると「そこどけ、そこどけ」と早馬が駆け抜けて来そうな街道筋である。


奈良井宿・街並み

水飲み場と冷えたラムネー
水のみ場がいたるところにあった。多くの旅人たちがのどを潤し、元気を貰ってまた歩き出したであろう。

この水は長い時間かけ、日本海へ注ぐのかと思えば、無事に新潟に着けよと言いたくなる。
その横には丸太をくりぬいた水溜めにラムネーが冷やしてあった。1本150円なり。
仲良し3人組。
記念の写真を撮っているところへさしかかり、ちょっと失礼!と横からシャッターを押した。
駕籠かきの「えっさ!ほっさ!」の掛け声、この3人知っているだろうか。

駕籠かきとお姫様?

二つの表札
一軒の出入り口に二つの表札がかかっている。
この家は「床屋」さん。米屋、酒屋などの表札もあった。
観光客目当てのお土産屋さん以外は、こんな控えめな看板が多い。
時間に制約された観光は落ち着かない。あと1時間あれば充分観られるのにと不満ながら神社へ向かった。家の中の構造を覗いてみたいと思ったが生活をされている家に勝手に入るわけにもいかず諦めて通り過ぎた。
神社の境内で昼食にする。出発時間まであと20分。
バスの中で渡された弁当を急いで食べる。
ここに来て、どうしてこんな弁当を食べさせるのかと言いたくなる内容。脂ものの冷凍食品ばかりだ。大阪南港で積み込んだ大阪製造だから仕方ないか。奈良井の新鮮な山菜の料理を期待したのが間違いだった。
あまり美味しくないが残すと荷物になり、荷物を減らすために無理して腹に押し込む。雨がまた降り出した。
雨対策の準備に手間取り予定より10分遅れて12時40分いよいよ鳥居峠へ出発。

鳥居峠へ、いざ挑戦

山吹が咲き乱れる峠道
坂を登っていくにしたがって山吹の黄色が目立ってきた。一重の花はこの街道によくマッチしている。江戸の時代から旅人を楽しませてくれた山吹だろうか。
誰かがここは木曾街道ではなく山吹街道だと言っている声が聞こえてきた。
緩やかな坂道が急坂に変わる胸突き八丁に休憩所があった。これは昔ながらの古い建物ではないが現代人のために休憩所として作られた簡単な小屋である。
ここ「中の茶屋」は菊池寛の「恩讐の彼方」に出てくる舞台。市九郎とお弓が江戸を逃れ、昼はお茶屋を開き、夜は強盗を働いた場所となっている。
お茶屋は峠の見晴らしの良いところにあるのが通例だが、ここは違っていた。北向きの斜面で陽当りは悪く、正面の山がすぐそこに迫り暗い感じがした。二人が悪事を働く場所として選らばれた舞台に何となく納得できるものがある。

中の茶屋

鳥居峠から江戸方向を望む
「木曽路はすべて山の中である」に納得
13時50分峠に到着。奈良井宿・鎮(しずめ)神社を発ってから1時間10分後であった。相変わらず雨は降っている。登ってきた北の方は視界が拓けていた。木曾の稜線が幾重にも重なって霞んでいる。この風景は江戸時代と変わっていないだろう。当時の旅人たちは、どのような思いで眺めたであろうか。しとしとと降る雨のせいか明るい旅より、深刻で苦しい旅の方が多かったのではと暗い想像が先走る。

峠を南方向へ下るとしばらくして「熊除けの鐘」がある。ここは信濃路自然歩道中山道コースに指定されているため歩行者の安全を願って設置されたものらしい。
栃の木の群落の地で「木曾のとち浮き世の人のみやげ哉」と松尾芭蕉が詠んだ句の如く、栃の実を食べる熊だ出没するのだろう。長崎からのツアー一行が次々に打ち鳴らす鐘の音に「熊除けの鐘」ならぬ「長崎の鐘」だとガイドさんは笑わせる。
ここからは急坂の下りとなる。雨に濡れた石畳は滑りやすく慎重に歩いた。


熊除けの鐘

薮原の櫛店と櫛を作る職人さん

鳥居峠を越える間シトシトと降っていた雨は、午後3時半に薮原宿街に着いたときにも降っていた。
今夜の宿にチェックインするには早いし、お六櫛製造販売店によって「お六櫛」の由来を聞いたりお土産を買ったりする。
説明によると『妻籠の宿に、お六という名の娘がいた。大変な美人だったが、持病の頭痛でいつも悩んでいた。
ある日、御嶽神社に願をかけたところ、夢枕に大権現が立ち、「ミネバリの木を挽いた櫛で梳けば直る」というお告げを残したという。さっそく、ミネバリの木で櫛を作り、髪をすくと、頭痛がすつかり直った。
同じ櫛をつくって、お六が人々に分け与えたことから、お六櫛として妻籠宿で名物になった。ところが、妻籠にはミネバリの木が不足するようになり、薮原へ依頼して櫛を作ってもらっていたが、いつの間にか、薮原に中心が移り、藪原がお六櫛の本場になってしまった。』という。

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