出石の手打ち皿そば

平成15年11月23日(午後)

城下町出石(いずし)町は 但馬の小京都といわれている。
 今年最後の連休とあって、大手前駐車場は満車。20分も待っただろうか。やっと入場できた。長い長い時間に感じた。

駐車場に車を停めて『出石』に足を踏み下ろしたとき、昼12時を過ぎていた。伊根から1時間20分かかっている。
 ここの天気も降ったり止んだり、陽が照ったりと傘は手離せない。

まずは腹ごしらえをしてから城下町の散策をすることに意見が一致する。繁華街の食べもの屋といえば、あっちを向いてもこっちを向いても『出石皿そば』の看板ばかりだ。

 宝永三年(1706年)信州上田から国替えになった仙石氏によって伝来したといわれる『そば』は、その後『出石手打ち皿そば』として有名になったという。

 つい半月前までは兵庫県の『出石町』そのものも知らなければ、『出石手打ち皿そば』のことはもちろん知らなかった。
 息子夫婦は、ここに来て『出石手打ち皿そば』を食べるのが当然といった顔をしている。何回か遊びに来たらしい。

 どの蕎麦屋さんも店から溢れ、道路に長い行列が出来ている。町には50軒のそば屋があるというのにこの行列には驚きだ。

大通りを左に折れて、行列の短い店に並んだ。店内に入ると柱に紐で結わいたノートと鉛筆がぶら下げてあり、名前と人数を記入するようにしてある。
 先客が座席を離れると名前が読み上げられ、その席に着く仕組みになっている。御用聞きの省力化の一つらしい。

 やっと順番が来て、畳の間のテーブルに座った。

「何皿にさせていただきましょう」店お揃いの紺絣の着物を着た中年女性が尋ねた。「何皿食べるか」と聞かれても戸惑うばかり。一人前だと五皿運ばれて来るそうである。何皿食べれば満腹になるのか、隣のテーブルの皿を見ても見当がつかない。

 出石のそばは、『三たて』といって、挽きたて・打ちたて・茹でたてが売物だという。後で追加注文しても構わないが時間がかかるので、できるだけ一緒に注文した方が早く出来ます、と店員さんは言ったがとりあえず一人前づつ注文した。食べてみて分かったが一皿は大体二口分ぐらいであった。

『三たて』だから仕方ないが、腹が減っているときの長い待ち時間は耐えがたい。目のやり場がなく、前や横のお客の食べるのを眺めていた。配膳、跡片付けをする店員さんはこれぞ目が廻る忙しさである。

 眺めていて気付いた。小皿に少しばかり盛ったそばを大きなおぼんに何枚も重ね運んでいる。見るからに重たそうである。どうして手間をかけ、わざわざ重たくして出すのか?

 皿10枚分ぐらいのそばの量ならば、盛りそばにすると簡単に手間をかけずに運べるものを・・・。

 そのことを息子に話しけけると、出石は陶磁器の産地で、日用品の食器類を焼いている。陶磁器の需要を拡大するために小皿に盛って出す『皿そば』を考え出したという。

 なるほど、街の発展の役割を果たしているのかと思えば納得がいく、がはたしてそれが本当かどうか。ネットで探してみたがそれらしい文献にいまだに辿り着いていない。

 皿の大きさ、白くて無地の皿、店中に響く皿の音までが『いさはやのんのこ皿踊り』を連想させる出石の皿そば屋である。

手打ち皿そば

通の食べ方は

大きなとっくりに入ったつゆをそば猪口(ちょこ)に注ぎ、つゆの味を味わう。
次に、そばとつゆだけで味わう。
その美味しさを味わった後でお好みの薬味を入れ、違った美味しさを味わう。最後は、蕎麦湯を飲んで締め括り。

この店では、卵やトロロイモ、ワサビなどの薬味が出てきた。
締め括りの蕎麦湯は初めて飲んだ。
美味しかった。

画像は、一人前食べ終わった後に追注文した皿そば。
昼食後城下町の散策に出かける。

酒蔵

この赤い土壁の酒蔵、季節によっても、またその日の天候によってもその表情を変えるという。
この日は雨上がりで赤みが強く、綺麗だった。
お土産店がつながり、観光客で賑う大手前通り。
昔の面影を残す町家の造り。
宗鏡寺(沢庵寺)

たくあん漬けを広めて偉大な禅僧として大衆に愛されただけでなく三代将軍・家光にも厚遇をうけた沢庵和尚が荒廃していたお寺を元和2年(1616年)に再興して出石城主代々の菩提寺となったお寺。
(観光パンフより)
出石城

登城橋
出石城の石垣
慶長9年(1604年)小出吉英が築いた近世的な構えの平山城。
戦国の世を経て江戸時代に入ると、城主は次々と替わりました。
宝永3年(1706年)、信州上田城主、仙石越前守政明が城主となった後、260余年にわたり出石藩五万八千石の本城となって栄えました。しかし天守閣は築かれず、藩主の居館を本丸に建て、二の丸の建物と廊下で連結していました。
(観光パンフより)
出石城
明治に入り城は取り壊されたが、昭和43年本丸跡に昔ながらの隅櫓が復興された。
家老屋敷二階から眺めた街並み

家老屋敷は出石城の内堀の中にあった高級武士(家老級)の居宅として使われていたもので、外観は平屋建てに見えるが、隠し二階があり不意の襲撃に備えてあるとかで二階に上がってみたら天井が低く窮屈な部屋だった。
江戸時代における三大お家騒動の一つに挙げられる仙石騒動の中心人物仙石左京の屋敷があった場所のため「左京屋敷」とも呼ばれているとのこと。
(観光パンフより)
辰鼓櫓(しんころう):
辰の刻(午前8時)に藩士の登城を告げる大太鼓が打ち鳴らされ、またその形が鼓に似ていることから名づけられたとのこと。
出石城のそばに辰鼓楼が完成したのは明治4年(1871年)。高さは石垣を含め19・5メートル。
 完成から10年後、藩医だった池口忠恕がオランダ製の時計を寄贈し、現在のような時計台になった。今の時計は3代目にあたる。
現在は時計台として暮らす人、訪れる人に親しまれる出石のシンボル。
(観光パンフより)
出石焼

江戸時代中期に地元で大量の白磁の原石が発見されたことから、藩主の援助を受け今の佐賀県有田町の陶工を招いて、出石の城下町で磁器作りをしたのが始まりとされているという。
絹の肌を思わせる「白磁」出石焼は清楚な風情を持ち、優雅で気品にあふれ、人の心まで映すかのような美しい白磁と地元では自慢している。生活雑器から芸術作品まで、様々な磁器が作られている。
(観光パンフより)

お土産店の陳列で写す。
 散策の後、家内はおみやげ選びに時間をかけた。どこの店も、そば、陶磁器、大豆の加工品ばかりである。

 優雅で気品にあふれ、人の心まで映すかのような美しい白磁と地元で自慢している出石焼は実に美しかった。また、そばといえば手軽にできる質素な食事で、かけそば、ざるそばしかし知らない私にとっては、出石の皿そばに出会い、味の奥深さを知った。
蕎麦湯の美味しさは忘れられない。

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