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南薩摩、知覧・川辺めぐリ(1)

                           旅行月日  平成13年12月7日〜12月9日

                     知覧特攻平和会館

  12月7日

 鹿児島県薩摩半島南部の町、知覧町はお茶の産地であり、特攻の基地としても有名な所である。知覧の隣町、川辺(かわなべ)町は仏壇の産地である。
 
 今回の旅は観光が目的ではなく、山登りのサークルが日本百名山のひとつである「開聞岳登山]のついでに、知覧の武家屋敷、知覧特攻平和会館、そして川辺の清水磨涯佛を見物しようと計画したのであった。

12月7日、マイカー2台に分乗して7人が諫早を発ったのは、東の空がやっと白味を帯び始めた6時半である。(九州の日の出は本州よりかなり遅い)

 島原外港まで陸路を走り、フェリーで熊本港に渡った。熊本市内を通り抜け御船インターで九州縦貫道に乗り一気に薩摩半島まで南下する予定であった。

 しかし、一台の車の調子が悪く、鹿児島空港近くで一旦高速を降りてレンターカーに乗り替えるなどのアクシデントに見舞われ、知覧に到着したのは4時少し前になっていた。
 予定では、今日のうちに知覧武家屋敷と知覧特攻平和会館を見学するつもりであったが、平和会館だけを今日のうちに見学しておこうということにした。

 入場券購入窓口には、開館時間は夕方5時までと表示してある。
「今度もまた時間が足りないのか」直感的にそう思った。

 もう10年前になろうか、家内と息子と3人で、ここにはじめて来た時、時間の経つのも忘れ足留めになってしまった。特に遺書は、展示された順に読んでいると時間が経って前に進まなかった。そのときも次の予定に追われており、またゆっくりと出直そうと思ってあとにしたのであった。

 前回来た時に戦史資料室などはひと通り見学しており、きょうは隊員たちが残した遺書・絶筆を時間いっぱいまで読もうと決めていた。

 遺書を読みその人の遺影を探す、この繰り返しで進んだ。遺影には氏名と享年が記されてあり、何と17歳から25歳ぐらいの少年や青年たちが多い。国を思い、父母を思い、兄弟を思い、あるいは恋人を思い、永遠の平和を願いながら書き残した遺書であり絶筆である。

 まだ幼さが残る顔。飛行服の胸にマスコット人形をつけている隊員。しかし、軍服を纏った姿は大人であり軍人である。現実に返ってみれば17歳とはまだ高校2年生ではないか。したためられた文章、辞世の句、毛筆の字など、どれをとっても現代の同年齢の人たちは太刀打ちできない巧さである。

 意外なものがあった。隊員たちが残した遺書ではない。
 石倉大尉(石川県七尾市)に送られた母からの手紙であった。

『ばくだんをかかえて行く時は、必ずわすれまいぞ
(ナムアミダブツ)ととなえてくれ、これが母の頼みである。
これさえ忘れないで居たら、母は此の世に心配なことはない。
忘れるなぞ。となえてくれ。
こん度会う時は(アミダ様)で会おうではないか。
これがなによりも母の頼みである。忘れてはならないぞ』
                             母より
                             (原文のまま書き写したもの)

 憶測で申し訳ないが、石倉大尉のお母さんの胸中は、母として別の思いを伝えたかったのではないだろうか。しかし、手紙の検閲が厳しい時代のこと、このようなかたちでしか思いを伝えられなかったのではともどかしさを感じる。

 我が子の17歳のころを思い出した。もし、戦争状態でこのような立場になっていたら、私はどうしたのだろうか。親としての心のうちを明かせない世相のなかで、顔は笑って心で泣いたであろう。

1時間は、「あっ」という間に過ぎ、閉館の時刻になった。

 外に出て見ると、沈みかけた夕陽が灯篭や樹木を照らし、冬空には珍しく、雲ひとつない青空だった。
空高く、一筋の白い糸を引いて南の方角から北へ向う銀色に光る物体があった。

それはあまりにも高い所を飛んでいる飛行機で、旅客機か軍用機かは判断がつかない。私は館内の余韻がまだ覚めやらず、ついあれは特攻機ではないかと思った。いま霊が舞い戻ってこの基地の上を飛んでいるように思えて仕方なかった。

特攻隊員の霊がホタルになって戻ってきた映画、高倉健主演の『ホタル』と重なった。

 知覧の空 飛行機雲またぎ 暮れてゆく


 BGMは5thと愉快な仲間達!! の「回想」を使わせていただきました。


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