坊さんの不満

 実家の弟から父の十七回忌をするので出て来るように、と電話があ
った。私は長男だが三番目の弟が家を継いで、先祖のまつりごとや
93歳になってもまだ元気な母の面倒も見てくれている。

 弟は近所付き合い、お寺の付き合い?など段取りよく事を運んでく
れる。大変だなぁと思いながらも、しきたりなど分からない私はただ
それを眺めているだけである。

 法事のたびに、お坊さんとの挨拶、終わってからのお布施を出すタ
イミングなど実に手際よい弟にいちもく置いている。こうゆうときの
私といったら、お布施の額はどのくらい包めばよいのだろうかと、こ
んなことしか考えていない。

 読経が始まった。お経の中身が理解できない私にはありがたみが薄
く、「馬の耳に念仏」に近い。でも神妙な顔して正座している。時計
を見るとまだ十分しか経っていない。だが足がしびれて我慢が出来な
い。失礼して胡座をかいた。

 読経が終わったのは
30分後であった。お坊さんは向きを変え、「どう
ぞ、楽な姿勢になってください」と言った。みんなはその時初めて正座
を崩した。先に胡座をかいている私は少し恥ずかしかった。

 講話が始まった。こちらの方は日常の言葉で話してくれるから聞き
やすい。

「阿弥陀様は、ナンマンダブツと唱えれば浄土にいけると説いておら
れます。常日頃から仏壇の前に座りナンマンダブツとお祈りしておれ
ば、死後は誰でも浄土に行けるのです」

具体的で、先ほどの難解なお経より身近でありがたみを感じる。
なお講話は続く、
「お葬式で読経が終わりますと、故人に対しての弔辞が述べられます
が、その弔辞のなかで『草葉の影から・・・・とか、冥土で・・・・』
という言葉がよく使われます。


草葉の陰からというのは、故人があの世に行って草の生えた寂しいと
ころに埋もれているという意味であり、また冥土とは、死者がいく暗黒
の世界という意味があります。


死者は先ほどから言っていますように誰でも浄土に行けるのです。浄土
とは、西方極楽浄土で決して寂しくも暗黒の世界でもありません。極楽
なのです」

 このお坊さんは弔辞の語句の使い方にご不満のようだ。このお坊さん
は先代が病気で勤めが出来なくなり、後を引き継いで間もない
40代前
後の息子さんである。先代のお坊さんはこんな講話はしたことがなかっ
た。
「なるほど、なるほど」言われてみればそうだなぁ。

 弔辞を述べる当人は苦心して作り上げた文章でも、立場が違った坊さ
んはこんな受け取り方をしているのかと、考えさせられた十七回忌の法
要であった。
                            (H13・4・4)
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