農薬をまぶした握り飯
乞食を見かけなくなってから、もう何十年も経ったような気がする。
「経ったような気がする」とあいまいな表現になるのは、学校を卒業し社会人になってからも見たような記憶もあるが、こちらの方はあいまいで定かでないからである。
私が小学生のころといえば世界第二次大戦が始まった昭和16年から終戦後の22年ごろまでになる。そのころは月に数回は乞食の姿を見かけていた。幼かったころ見た乞食の印象は強く残っている。
今は乞食そのものが話題になることもないようだ。姿を見かけないのは、生活が豊かになったためなのか、「乞食は三日すれば止められない」といわれたくらいおいしい職業であるがため、商売(?)として法律で禁止されているのかのどちらかであろう。
私がいつまでも忘れられない乞食の一人に「カックンちゃん」という有名なオジサンがいた。
乞食は、何処からともなくやって来てどこかに消え去る。もぞもぞと口篭もりながら家の前に立って物乞いするだけで、自分の名前を名乗ったりはしないからどの乞食でも「乞食」という呼び方だけで、それ以上のことを知る必要はなかったし、あえて尋ねようともしなかった。
ところがこのカックンちゃんだけは誰でもが本名を知っていた。
カックンちゃんは並みの乞食とは違った存在だった。「白石のカックンちゃん(本名 市原格市)」と名前だけではなく住んでいる肥前白石の住所つきの有名人だった。
カックンちゃんがやってくると本人よりも先に数百メートル先を子供達が走り「おーい、カックンちゃんが来たぞー」と知らせて廻った。
この人は一軒一軒門付けして廻らなくてもよかった。子供達がこんな形で人集めを自主的にかって出ていたからである。
この人気の秘密は、今でいう大道芸人であり、奇人であったからだ。
背丈は大きくはなかったが陽に焼けた筋肉隆々の男。両方の肩は相撲取りのように肉が盛りあがっていた。それだけではない、首の後ろに大きな瘤があったから三つの山が肩にできていた。
フンドシだけで着物は着ていなかったように記憶しているのは、肩の筋肉の盛り上がりと汚れたフンドシの印象があまりにも強くて、着ているものに気を止めなかったからであろうか。
顔つきはイカツイ方ではなかったが目が不自由で、ものを見るときには手の五本指を開いて目の前で上下に動かしながら見ていた。
歩く姿は、重箱ぐらいの大きさの箱に棹をつけ、糸を一本張っただけの一本三味線を肩から斜めに掛けて裸足でのっしのっしと歩いていた。この三味線の材料の木切れは墓場から拾ってきて自分で作ったものだといわれている。
小さい子供たちが集って来るのは、カックンちゃんが貰ったお握りを地べたに転がし泥をまぶして食べる様子を見たいからであり、またカックンちゃんのもう1つの奇行である、貰った銅貨をひょいと口に入れ飲み込んでしまうところを見たいからであった。
飲み込んだ銅貨は首の後の大きな瘤に溜めているのだといううわさを子供達は信じ切っていたから魔術使いみたいな憧れの人でもあった。
身体の構造が普通人と違っているために、カックンちゃんが死んだら大学病院で解剖されるという噂であった。大学病院がカックンちゃんの汽車、乗合バスの乗車賃は払ってあるから日本全国の乗り物は「顔パス」でただだという話も流れていた。しかし、乗り物に乗って移動したという話は聞かなかった。
子供達にはカックンちゃんの三味線の巧さと唄うたびに歌詞が違う即興詞であることは理解できるはずもなかったが、三味線と唄の才能は優れたものを持っていたという。。
佐賀県在住の人たちが発行している文芸雑誌「城」にカックンちゃんの生涯を聞き取り調査し、小説風に纏めた作品が7年前に発表された。
その内容はカックンちゃんと同じ年代の人たちが見たカックンちゃんの様子である。
これを読んでみて、奇行、風貌は、私が記憶していることとたいした変りはなかったが、子供では理解できなかった唄と三味線の素晴らしい持ち主であったことをこの「城」を読んで初めて知ることができた。
ここに内容の一部を紹介しよう。
カックンチャンの歌は即興詞で唄うたびに歌詞は変わっていた。
押して開いて
緩めて締めて
サマちゃんの腰はゴムの腰・・・
と、くすくす笑わねばならんような淫らなものもあったが、皮肉たっぷりのものもあった。
「早ようカックンちゃんに握り飯を持っていかんかい」
姑さんが若嫁さんに言い付けるが若嫁さんは怖くて持っていかない。するとカックンちゃんは唄った。
こなた人情知らずのおかみさん
家も栄えん子もできん
外で父ちゃんは浮気する
姑さんからもいびられる
ナッチョラン ナッチョラン
三味線は威勢良く弾み、そこで若嫁さんは恐る恐る握り飯を差し出したそうである。
また佐賀の歓楽街で芸者と三味線の弾き比べをし、カックンちゃんはいつも勝った。「カックンちゃんの一本弦が千変万化し、その力量にはさすがの芸者もかなわなかったから、たいした腕前だ」と同年輩の思い出話しを載せている。
どこか一本脳の神経が狂ったところはあったが、このように人に危害を与えるではなく、名物男として可愛がられたカックンちゃんであったが思いもよらぬ悲劇が起きている。
泥をなめても腐ったものを食べても一度として腹を壊すことはなかったカックンちゃんは、軒下に干してあったBHCの上に握り飯を転がして食べてしまったのである。
四日四晩苦しんで昭和27年8月24日亡くなったそうである。遺体は大学病院(九大)で解剖されることはなく火葬されたという。
私は、カックンちゃんの死に様を読んで唖然とした。
無垢の善人を、人が作り出した毒薬で殺してしまった怒りを誰にぶっつければよいのか。罪のない赤子のような人間を苦しませ殺すとは何事か。怒りは収まらなかった。
時が経ち冷静になって見直してみれば、われわれが日常食べている食菜は量こそ微々たるものであれ農薬で汚染されていることは疑いもない。
カックンちゃんが食べてしまった「農薬をまぶした握り飯」と大差ない食卓に、あがいてもどうしようもない一個人の限界を思い知らされるのである。
握り飯を地べたに転がし美味しそうに食べる「カックンちゃん」の顔が浮かんでくる。
※参考文献 文芸雑誌「城」1994・8、 No71
編集者・発行者 城同人会