百手祭り(ももてまつり)    諌早市破籠井(わりごい)

    平成12年2月1日

 

 昨日(二月一日)、家から歩いておおよそ三十分ばかりの里山にある熊野神社の「百手祭り」に行ってきました。初めて「百手祭り」を見たのは平成2年ですから十年ぶりになります。

 近くで催される祭りだから、毎年行けるのにと思われるかも知れませんが、この行事は、二月一日の午後二時と決まっています。 初めてのときはまだ現役でしたが、たぶん土曜日で仕事がお休みだったと思います。今度は火曜日でしたが、リタイヤして毎日が日曜日だから都合が付いたのです。あとの九年間はウィークデーで仕事優先で行けなかったというわけです。

 この熊野神社は、熊野大権現といわれるように、紀州の熊野権現の分霊社です。宮司さんから貰った説明書によりますと、壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門の将、讃岐中将・伊賀倉左近、平時実一族八人が、文治四年(1188)当地に落ちのび、山中に人目を避けて定住し、平家追討の詮議も収まった十四年後、平家の守護神である熊野権現をこの地に祭祀したのが始まりとなっています。

 ところで「百手祭り」は、古くから伝えられた悪魔退散、厄払いの神事です。境内に注連縄を張り、祭壇を備え、正面に藁で作った丸い輪の的を掛け、中央に大きな紙張りの的を置き、裏に「鬼」と書いた紙を貼り付けておきます。

 的射の神事に使う弓矢は、当番の家々から男女が集まり、弓・矢の材料となる、樛(きゅう)の木、細い女竹をその朝のうちに近くの山から採ってきて、境内で作りあげたものだそうです。

 祭壇の正面にござを敷き、その年四十二歳の厄払いの男女、年祝いの六十一、七十、七十七、八十八の人たちが正座して座ります。この日は十八人が座っていました。厄払い、悪魔退散の神事が終わったあと、いよいよ的射の式に移ります。

 的から七、八メートル離れたところに宮司が立ち、弓矢をとり、神歌「神代より力まさしきみことにて雲井に近き桃の木の里」と歌いあげ、的に向かってエーイ、エーイと一本目の弓で六本の矢、二本目の弓で六本の矢を射ます。一本の矢が一カ月、一年で十二本の矢ということですが、今年は閏年で十三本の矢が放たれました。

 一本目は的を外れ、おおよそ二百人の見物人たちから溜息が出ました。二本目は、宮司が慎重に構え、なかなか矢を離しません。静まりかえった境内に、一瞬、的を射抜く音が響き、黒丸の真ん中に当たりました。黒丸の裏に張ってあった「鬼」と書いた半紙が見事落とされ、一

斉に拍手が起こりました。矢はつぎつぎと放され、十三本のうち八本の矢が的に命中しました。そのたびに拍手が湧きました。矢を射終えた宮司は「野林(この神社のある地名)の熊野の神の恵みにて破篭井(ワリゴイと呼ぶ部落の名前)の里の栄え守らん」と神歌を詠います。

的射の結果から、宮司がご託宣を伝えます。「早々と二本目の矢で「鬼」を落とすことができました。昔、水は井戸から釣瓶で汲み上げていました。それに例えますと、水面で桶に水を入れようとバチャバチャさせていた去年が、今年はやっと桶に水が入り、綱を引き上げようとし

ている年にあたります。上向きの年です」静かに聞いていた見物人はホッとした表情になり手を叩きました。

 最後は、当神社に備えられている天狗の面を宮司は鈴を鳴らしながら、境内に集まった善男、善女、子供たちの頭にかざし、無病息災、厄除けのお祓いをしていました。

 境内のたき火で温めた「とっぽ酒」(孟宗竹で燗をつけた酒)を、これまた青竹で作った猪口に入れ、参拝者に振る舞ってくれました。山の冷気で冷え切った体は猪口一杯の御神酒で暖まりました。

 この日は、雪こそ降りませんでしたが寒波が厳しい一日でした。でも私の心は、のんびりとした暖かい午後のひとときでした。

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