風を盗んで伯耆大山へ |
山 行 日 平成15年10月12日〜13日 13日(雨) |
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私が「だいせん」という言葉からまづ連想するのは久住の「大船山(だいせんざん)」である。九州に住んでいる者には大船山を「だいせん」と呼びそれで通じるからである。 「伯耆大山」を「ほうきだいせん」と読める人は少ないであろう。登山に興味がないとなかなか読めない文字である。私が読めるようになったのはハイキングクラブにお世話になってからで、ここ3、4年前のことである。 大山を「だいせん」と読むのは、氷ノ山(ひょうせん)、扇ノ山(おおぎせん)、蒜山(ひるぜん)のように山を「せん」と呼んでいるこの地方(鳥取、島根)独特の呼び方のようである。 この大山は西の日本海側からの眺が富士山に似ていることから「出雲冨士」、「伯耆冨士」と呼ばれているそうだが、私はまだその美しい姿は見たことがない。 山陰地方には足を延ばしたことはなく、まだ出雲大社や宍道湖も知らない。山陰地方の景色の一部でも眺められたらいいなぁという思いで、今回、難しい読み方の「大山」登山に参加した。 大山は、ブナ林の紅葉が綺麗だというふれ込みであった。 10月12日、諫早を午前6時に出発、中型バスに揺られること実に9時間の長旅である。関門海峡を渡り、本州に入ってからは中国自動車道を走り続け、途中、米子市に寄り道はしたが大山の麓・大山ビューハイツに到着したのは夕方4時前であった。 米子市から眺める大山は三合目あたりから雲に覆われ山容は想像すら出来なかった。その頃まだ西の空は雲が切れ、西陽が差し込み米子市も大山あたりも明るかった。 長く続いていた秋の晴天は、この日低気圧の通過で下り坂に向っていた。 宿に着いて、ひと風呂浴びた。6時からの会食は事前に予約していた大広間で曇天を吹き飛ばす勢いではしゃいだ。26名のパーティーともなれば登山の楽しみ半分、前夜の安全祈願の宴の楽しみ半分である。 大集団での登山は気苦労も多いが反面宴会で親睦を深めるよい機会でもある。第一線を引退した中高年はそれぞれ違った職歴の集まりでお酒が入ると苦労話や面白い裏話が聞けるのもこんな時である。 会食の時間は8時まで、あとは部屋に戻って酒肴を持ち寄り、遅くまで宴会は続いた。いつの間にか一人減り、二人減りして自然散会になったのは11時近くであった。その頃は誰一人として明日の天気のことなど忘れ深い眠りに入っていたに違いない。 日付は変わって13日朝4時40分。目を覚ました。 締め切った部屋の中では何の変化も感じなかった。 サッシの窓を開けた途端、雨だれの音が飛び込んできた。薄暗い外を凝視してみると雨粒が大きい。最悪の天気になっていた。 たぶん自分達だけで飲み食いし、出雲の神様に御神酒をあげなかったせいかも知れないが時すでに遅しである。 5時起床、6時出発、この間に前夜配られた朝食の弁当を食べ、登山の準備を終えることになっていた。 この天気では登山は中止だと勝手に決め込み、同室の5名はのんびり構えていた。5時20分になり隣の様子を覗きにいってみた。何と遅くまで飲んでいた疲れも見せずに弁当を食べている。予定は変更しないとチーフリーダーは張り切っている。慌てて部屋に引き返し準備にかかった。 弁当を食べはじめたがどうも食欲がない。やはり遅くまで酒を飲んだ後遺症であろう。どう頑張っても半分食べるのがやっとであった。 雨衣、スパッツ、と完全武装でバスに乗り込んだ。バスの中は何となく重苦しい感じである。雨足は依然として変わらない。 この悪天候でも登るのか?ガスの山頂に登っても仕方ない、という気持ちが先走って、もう一つ闘志が湧いてこない。 バスは5分で夏山登山口に着いた。雨のなか3班に分かれそれぞれに準備運動をして歩き出したのは6時30分であった。 幾多の変遷を経て江戸時代には三千石の寺領を受けていたという大山寺には四十二坊あったと云われている。今もその名残が残る石垣を眺め、石畳を踏みながら登った。 年間15万人が訪れるというだけあって登山道は整備されている。山頂の弥山までは約3時間の登りになる。だがこの天気では時間はあてにできない。 チーフリーダーは出発前「行ける所まで行き、そのときの状況判断で引き返す」と説明していた。 道程を表す標識が合目ごとに設置され全体像が掴め安心できた。その標識を見るごとに、いつ引き返しの判断だ発せられるかと心待ちしながら、まだかまだかという思いで後に続いた。 標高1250mの5合目付近から森林帯は終わり、避難小屋がある6合目あたりから天候に恵まれれば展望を楽しみながら登れるはずであった。しかし、今日は逆目に出て遮るものがないぶん強い風の吹きさらしになった。 とうとう6合目の避難小屋までやってきた。 西を背にして山頂に向うと左側(北)から強風が横殴りに吹き付ける。 先に到着していた別のパーティー10名ほどが避難小屋の前に集まり、リーダーの話を聞いているところだった。「この強風ではこれから先危険である。ここで引き返すことに同意してもらいたい」と説得していた。どうもこのリーダーはこのパーティーが雇ったガイドのようであった。まもなくして一行は下山した。 われわれは三つに分かれたパーティーがたどり着くまで避難小屋で待った。避難小屋は5人も入れば満員の狭い小屋である。入れないものは風に吹かれながら外で待った。全員がたどり着いたところで、チーフリーダーと各班のリーダーが話し合い、判断を下すまで少し時間がかかった。リーダー達はこの山の経験者で地形に詳しい。 「希望者だけでパーティーを組み直し、8合目まで登り、その先は8合目で判断する」と結論が伝えられた。 国民宿舎を出るときすでに2名は諦め、24名が6合目まで登って来た。 いまのところ疲れもなく、何処といって痛いところもない。この先山頂までの道は木道が多く風に注意さえすれば危険な道ではないという説明に「ここまで来たのだからやってみるか」と、ここまで来てやっと闘志が湧いた。1時間30分かかってやっとエンジンがかかったというわけだ。 結局、非難小屋に9名が残り、15名で8合目まで挑戦することになった。 この先はストックをうまく使って上体のバランスを崩さないよう、ストックにすがる形で足を交わした。遮るものがない吹きさらしは怖い。時には崖に遮られ風が当たらないところもある。そこでひと休みして呼吸を整える。 とうとう8合目までやってきた。ここまで来て引き返すのは心残りだ、ピークを極めたいと思った。しかし、リーダーの判断にかかっている。リーダーは休まずに先へ先へと進んでいく。よーし付いて行くぞ、と元気が出る。 植物保護と崩落防止のために設けられた木道は地面から宙に浮いた形で作られている。そのため足元から風が吹き上げ、舞い上がってしまいそうになる。頼りは木道に設けられたロープをしっかりと掴みカニの横這いになって進むしかない。 「風を盗む」という言葉を思い出した。これはたぶん阿蘇の雪山登山で強風時の対策で教わった言葉であった。強風は常に吹き続けているわけではない。瞬間止む時が必ずある。それを盗み移動せよ、という意味である。 横風は雨と一緒になって顔に襲いかかる。砂粒を叩き付けられるような痛さだ。ロープを握った手で顔を覆うわけにはいかない。手を離せば吹き飛んでしまう。耐えながらカニの横這いで進んだ。 強い風の音の中に動物の鳴き声に似た奇妙な音がときおり聞こえる。しばらくの間その声の主が分からないまま進みつづけた。その声の主が分かったのは山頂の避難小屋にたどり着いたときであった。 小屋全体が大声をあげて泣いていた。いや吼えていたといった方が適切な表現かもしれない。風の音であった。 動物の鳴き声は木道の手すりのロープをささえる鉄パイプの「もがり笛」であったのだ。 無事、弥山山頂に着いたのは登山口を出発して2時間半後の9時15分であった。予想に反して30分も早く着いたのはどうしてか。不思議であった。 視界が悪く、ゆっくり眺める時間を取らなかったこと。気温が下がり登りつづけることで体温を保持したからではなかろうか。 山頂ではわずか10分の休憩であったが身体が急に冷え、手は凍え始めた。 視界はゼロ。覚悟していただけに悔いはなかった。 あれだけ気乗りのしない出だしであったが山頂では達成感で天気とは裏腹に心は晴れやかであった。 ここに同行の樋口女史の句を借りて閉じさせていただく。 山頂は風の雄たけび野分け立つ |