気持ちを取り直し、尾根伝いに上がってく。昨夜は谷底は雨だったがこの付近はみぞれだったようだ。水気の多い雪が木の葉に積もり、触ると落ちてくる。ガスがかかりみぞれになった。途中で脱いでいた雨衣を着込んだ。 軍手をした手は冷たく、雨衣を着ていても汗は出ない。かなり冷え込んでいる証拠だ。1280mの御前峰に着いたのは10時25分、登山口から2時間になる。小さな御前様の石像があった。周りは雪が積もっている。御前様は寒そうだ。 地元で建てた説明板によると、御前様とは鬼山御前のことで、 『平家の官女、玉虫御前は屋島の戦いに敗れ四国より日向を経て、弟と共に源氏の追討をさけ、名も鬼山御前と改名し、柿迫村岩奥に住みつきました。 そのころ源氏の追討は厳しく那須与一の弟大八が、平家の残党を追い求めて、椎葉村まで参りましたが、大八の帰国がおそいので那須与一の嫡男を第二の追討に差し向けました。 那須の軍勢は、岩鬼を通り五家荘へとむかいました。岩奥に住み着いていた鬼山御前は、那須の軍勢の後を追い、同じ同族の平家を討たせてはならぬと、やっとこの地、保口にて追いつき「この奥は人の住むところではない、ここに留まって様子をみては」と引留め、那須与一の嫡男と鬼山御前の共同生活が始まり、そのままこの保口で一生を過ごしたと伝えられています。保口の那須家は、その子孫と伝えられています』と書かれている。
もしかしてあの紳士は那須さんという苗字だったかもしれない。 地元の人たちはこの御前峰を保口岳と呼んでいるとのこと。われわれが目指しているのは別の保口岳であった。 御前峰からは急な降りに変わり、足場は岩と木の根が張っており、滑らないように周りの樹木に掴まりながら降った。みぞれは強くなり深々ととした静けさの山中に雨音が響いた。 樹木の隙間から前方の山がすぐ近くに見えた。覆い被さるように斜面が広がっている。鞍部に辿り着くとその急斜面に挑戦した。 岩場を這うようにして登り、倒木の下を潜り抜け緊張の時間は続いた。そのあと緩やかな道になったがそこはスズタケを掻き分けて進む薮の中だった。いつの間にか、私は途中で写真を撮り最後尾になっていた。 前のグループに追いつくため急いであとを追った。前にはだかる背丈より高いスズタケを手で払い除けた。スズタケの穂先は私の顔面を見事に払いバシッと音がした。痛くはなかったがその瞬間周りがかすんでしまった。 このまま自分ひとりで探しても見つからないだろう、と判断した。 目的の保口岳に着けばまたこの道を引き返すことになっている。この二つの目で探すよりもパティー全員の22の目で探したほうが確実で早いと思い付いた。場所の目印になるものを探した。ポケットを探すと赤い袋に包装された飴玉が出てきた。
山頂は三角点と山名を書いた標板があるだけで木立に覆われ視界は開けていなかった。みぞれは依然として降り続いている。時計を見ると10時55分、早い昼食にした。 食べ終わるのを待ってすぐ下山した。帰りは眼鏡の場所を案内するため私が先頭になった。
赤い飴玉の袋はすぐ見つかった。落ちていそうな範囲を説明してみんなに探してもらった。22の目玉の威力はすごかった。わずか1分ぐらいで「あった!」とHさんが声をあげた。 私は、落としてからみんなの後を追って山頂に登る間「もし見つからないと7万円の損失だ」と悔やんだり、「もう買って7年過ぎたから元は取っている」と慰めたり複雑な気持ちだった。 スズタケの道がなくなるまで眼鏡はポケットにしまい込み降りた。 保口岳登山口に戻ったのは13時10分。ここはみぞれではなく雨である。雨衣を脱ぐ場所を探した。広場の下にバラックの小屋が見つかった。そこに降りて板戸を開けるとそこは炭焼き小屋であった。今も使っているらしく中は綺麗であった。そこを借りて装備を脱いだ。 |